動けば解決してきた、が通じなくなる日
朝、いつも通りに職場に着きます。机に座ると、いつもならすぐに動き出す手が、ふと止まります。何かがおかしい。けれど、特別なことは何も起きていません。
やるべきことはいつも通り並んでいます。それなのに、最初の一つに手をつけようとした瞬間、体が動かない。胸のあたりがざわつく。いま動いて、本当に解決するのだろうか、という声が聞こえます。
これまで20年、こんなことは一度もありませんでした。困ったことが起きれば動く。動けば道が開く。それで全部やってきました。
その日は、これまでなら迷わず決めていたことを、決められませんでした。帰り道、決められなかった自分が信じられない、という気持ちだけが残ります。
その体感には、待つことへの違和感という名前があります
水を入れたコップを、いつもの通り傾けて飲もうとします。何百回も当たり前にできていた動作です。ところがある日、傾けた瞬間に水がこぼれそうな気がして、手が止まります。
実際にはこぼれません。それでも、体が待てと言うことがあります。コップが変わったのでも手が衰えたのでもなく、体の中の判断装置が、これまでと違う警告を出し始めていることがあります。
警告は、頭ではなく体に出てきます。胸のざわつき。手が動かない感覚。喉のつかえ。動こうとすると違和感があり、止まろうとしても落ち着かない、という二重の苦しさが同時に来ることがあります。
「待つことへの違和感」とは、止まっていると、何か悪いことが起きそうに感じる体感のことです。じっと座っているだけで湧き上がってきます。頭の問題ではなく体の問題なので、気の持ちようでは消えにくいことがあります。
感じてしまうのは、感受性が働いているからです
自分だけがこんな違和感を抱えているのではないか、と感じる方が多いのですが、特殊な体験ではありません。
これまで話をうかがってきた中で、ある時期に初めて立ち止まる日を迎える方は、少数派ではありませんでした。多くの方が40代後半から50代にかけて、長年続けてきた動き方では何かが足りなくなる瞬間を迎えていらっしゃいます。
ある方は「20年動き続けて、初めて疲れた」と話されました。その日は自分が壊れたのだと思って絶望したけれど、後から振り返ると「あの日は壊れたのではなく、これまでのやり方では足りなくなったと身体が教えてくれた日だった」と。
共通していたのは、その日を自分が弱った日、壊れた日として記憶していたことでした。けれど、立ち止まる違和感を感じるのは、感受性が壊れているからではありません。むしろ逆で、感受性が正常に働いている証拠と考えられます。
体の声が届かない人は、立ち止まる違和感も感じません。違和感を感じてしまう人は、体と対話できる感受性を持ち続けてきた人です。
その日の自分を、責めなくてもよい理由
動けば解決してきた人が立ち止まる日は、壊れた日ではありません。動こうとして動けない、止まろうとして落ち着かないという二重の苦しさも、体が出す自然な信号として起こることがあります。
スラトレ®は、自分の才能を、自分で扱えるようになるためのメンタル思考トレーニングです。いまの才能タイプと思考のクセが六角形で出る、30の質問を置いています。止まっているときに湧いてくる落ち着かなさを、悪いものとして扱わずに眺めるところからです。